ほ り ゅ う の 物 語 彫宇之 記念ホームページ

    ほりゅうの物語 < 名人 銀次郎 伝承>  Horyuno Story  

 

 

                                                                   お断り:このホームページは製作途中のものです。
                                                                                     そのため、飛び飛びで読みにくい部分がありますが、
                                                                                     ご容赦ください。
                                                                                     仕事の都合上、中断することが多く、いつ完成するか
                                                                                     わかりませんので、そのこともご承知おきください。

                                                                    2021-03-03
更新

 

 

   二代目彫宇之夜話

      二代目彫宇之資料集   彫宇之画帳-○.   文身写真集−@. 

 

 

 

                 

                   二代目 彫宇之 鈴木銀次郎 

                 明治9年(1877)12月生まれ-昭和33年(1958)

                 7月13日没享年83歳

 

 

 

 

 

 

 

       

       初代彫宇之 ( 宇之助 ) 1842?--1927年1/8没 享年85歳

 

 

 

 

      

           二代目 彫宇之 ( 銀次郎 ) 

     二代彫宇之 鈴木銀次郎 は アメリカ進駐軍 の将校・兵たちの 顧客やファン

     が多かったので、どこかの基地に招かれた時の写真と思われる。

     背景は 米陸軍 の ウイリス MB ジープ である。

 

 

 

 

       

    三代目彫宇之 ( 市太郎 )の背中に 墨を入れる 2代目

    三代彫宇之 = 市太郎 氏は 厩橋東側 で、彫師 の 看板 を上げているが、

    なぜか、家の玄関の内側に金文字の大看板が掲げられていた。

    筆者がこの事を聞いたところ、この仕事は昔からおおっぴらにできない仕事なので、

    外に派手派手しく看板は出せないんですよ、ということでした。

 

 

          

       修行時代 の 三代目 彫宇之 ( 市太郎 )

       三代彫宇之 川上市太郎 は 三代目襲名 後、

       本所厩橋 の自宅一階に仕事場を設け、

       数々の今に語り継がれる名作を残した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

  < 彫宇之物語 >

 

後に 昭和の名人 と称されることになる 2代目彫宇之 こと本名、 銀次郎 は、 平井 の生まれで長く 神田 に居住し、 彫師 を営んでいた。

以下は彼の略歴である。

明治9年(1877)12月生まれ-昭和33年(1958)7月13日没 享年83歳

 

銀次郎 は 嘉左衛門屋敷 へ 移転 後、ここで生まれた。

 ※ 嘉左衛門 屋敷 の場所
  ここは現在の 蔵前通り 平井駅 出口交差点 一帯を云う。
  昔、田中庭 ( たなかば )といわれる場所であり、のちに、田中 といわれた場所であったという。
  ここ一帯の 屋号 として、たとえば「 田中の八郎兵衛 」とか「 小間物屋 」とか「xxxx」とかいう 屋号 があった。

 

 

銀次郎 の 嫁取り のいきさつは・・・2.(別掲参照)

 

入営

22歳で 近衛第2連隊 へ 入隊、1年間原隊 にいて、2年兵になって 台湾に派遣 される。

 

2年後(兵役3年)帰郷。

結婚する。

仕事がなく、深川 へ行って、魚屋 をやったり、ボテ ( 魚のかつぎ売り のこと)をやったりして暮らしていた。

木根川 ( 四つ木 )のXXという 飾り屋 へ 修行 に行って 仕事を覚える。( 飾り職人 の 仕 )

器用な人なので2-3年の 修行 で 技術 を習得した という。

その後、 平井 で 飾り屋 を始め、生計を維持 する。 

 

    ■飾り屋 とは・・・

  写真は、創美苑ホームページより転載

 かんざし 帯留め 金櫛 などの 原型 を作り、それを 彫刻師 にまわし、それを 回収して 仕上げ をして、 得意先 の お店 ( おたな = 問屋 ) 納品 する 仕事。

 当時は主に 横山町 の 問屋 に 納めていた ようです。

 現在の アクセサリー製造 メーカー に当たる 業種 です。

 

 

銀次郎 の 日露戦争 の 戦歴 について

 

明治37年、日露戦争 勃発 のため 召集 され、 近衛第2連隊 に 入営 し、 出征 、 第一軍 に参加する。

軍司令官 黒木大将 の元で、 朝鮮 の 鎮南浦 に 上陸 鴨緑江 ( おうりょくこう ) 渡河作戦 に参加。    黒木為驕@ 

北進して、 南山攻略戦 に参加、さらに 北進 して、 奉天 の 大会戦 に参加して、 師団長 の「 感状 」を受ける、という 殊勲を立てる。

戦後、明治38年9月、凱旋 する。 西暦でいう1905年の事だった。

翌明治39年、西暦、1906年、4月1日、その功により、 金鵄勲章 ( きんしくんしょう )を拝受したそうである。。

下平井村 で 戦死者 以外( 生存者 )でこれを 拝受した者 は、二人しかおらず、そのうちの一人という 大変な栄誉 を受けたのだ。

下平井 の 諏訪神社 の 境内 にある 日露戦争 の 忠魂碑 の裏側に、「 鈴木銀次郎 」の名が刻まれている。

当時いた 二人の 銀次郎 の名のうちの 最初の名 がそれである。

この 巨大な石碑 は、平成2年=1990年現在、現存し、見ることができます。

(筆者はそれを1990年当時、 平井現地 に赴き、 現認 していますが、2013年に再度訪問したときには、それらは 境内 から 撤去 されていて、見ることはできませんでした。)

               

                

家業 の 事業 について

その後、仕事はますます隆盛で、弟子も数十人もいて、家が手狭になったために、仕事場兼、主屋のつくりで、下平井村で始めての二階建ての家を新築した。

総武線 の 列車 の 車窓 からひときわ 目立って見えた ほどであり、 小岩 や 上平井 、 小松 の 親戚 が「うちの 平井の家 があれである」と0いって自慢したものだ、と伝えられています。

 

1903年製 国鉄 蒸気機関車 265号
当時の平井あたりではこのような 新型の機関車 がすでに走っていたかもしれない。

だいたいこの頃の 総武線 は、 両国駅 を 始発駅 として 千葉方面 へ向かう。
隅田川 を渡って お茶の水駅 まで 昭和7年 になってようやく 開通 したのだった。

 

その後、 第一次大戦 が始まり、 日本 の 国内経済 が 非常な活況 を呈していた頃、 義理の息子 が セルロイド工業 を新たに始め、 飾り屋 から 新事業 の セルロイド製 の 頭飾品 の メーカー に転換して、 新工場 を三棟建設し、 大拡張 を行った。

このとき、 銀次郎 は 40代の後半 であり、 旦那衆 として 村役 をやったりして、 仕事 はまだ20代半ばの 兄弟 に任せていた。

 

しかし、 大戦 が 終了 し、 天下に名高い 大正9年=1920年の 大恐慌 に 遭遇、運の悪いことに、その前年、 工場一棟 が失火により 全焼 するという事態になった。

事業の継続 は 困難 となった。

                                                               

その後、一家内の事情 もあり、 銀次郎 は 新天地 を求めて 東京 へ 出奔 、好きな道、 彫物師 (  ほりもん  と読む) を志し、 初代 彫宇之 の門をたたきその 弟子 となる。     

      ☆ 初代彫宇之 =本名: 亀井宇之助 古い時代の作品には「 彫卯 」の 銘 を彫り、
       後のものには「 彫宇之 」と 彫っている 、ということです。
       これが 三代続く 「 彫宇之 」の 名前のゆえん となっています。
       また、 亀井 の姓の亀は本当は旧漢字の亀の字ですが、筆者のPCでは旧字
       表示できませんので亀の字を使用しました。

そのとき、銀次郎 は 45歳 くらいであったという。(1921年大正10年のことであったといいます。)

その後、50歳くらいで 二代目彫宇之  (ほりゅうの )を 襲名 しました。
(彫宇之 の読み方ですが、本来は「 ほりうの 」と仮名を振りますが、この稿では、 江戸訛り の読み方である巻き舌の「 ほりゅうの 」とします。)

 

 

銀次郎 、東京へ   [  銀次郎 外伝  ]           20130824

 

銀次郎 の 平井村 からの 出奔 の前後のいきさつについて、さる身内に正したところ次のように言います。

 

 

おえいさん

銀次郎  ( のちの 二代目彫宇之 )  出奔 の際、家にいた「 おえいさん 」という 女中 といい仲になり、家を出て 平井の家 と 反対側の南側で二人で住んでいたという。

その際、 銀次郎 の 本家  ( 屋号 = 小間物屋 ) の 跡目 は兄に譲って出ていったといいます。

 

おえいさん という人は あっけらかん な人で、 銀次郎 が亡くなってからの事、一度東京の家へ訪ねてきたということである。

 

 

 

 

ひさえさん  (世に言う「 おひさ 」)

その後、「 ひさえ 」という 女性 といっしょになり、 平井 を出て、一説には 神田多町 に居を構えたのだといいます。

神田多町 で ひさえさん という女性と何年過ごしたのかは不明ですが、その後、再び平井(南側)に戻ったという話もあります。

その後、「 ひさえ 」さんと言う女性とは、別れたといいます。

玉林氏 の 著書 に出てくる「おひさ」とはこの人のこと。

残された口承ノートではこの「 ひさえ 」さんという女性の事には触れられていませんので、婚姻関係は無かったのかも知れません。。

もっとも婚姻関係といっても、大昔の事ですから・・・なんとも・・・

銀次郎 はなかなかの 達者者 だったようです。

これが 銀次郎 に対する評価としては、いいのか悪いのかはわかりませんが、 彫師の一代記 の中では、それにふさわしい事実かもしれません。

ちなみにこの「ひさえ」さんという人の人となりは、伝聞として伝わっていません。

あるいは関係者が存命ならばもう少しわかったのかもしれませんが・・・

(これは長い間、封印されていた事実のようです。)

 

 

 

  鈴木ませ    (1955年=昭和30年3月7日没 享年65歳)

 その後、 二代目彫宇之 を 襲名 して 神田元久 の 仕事場 に落ち着き、「 ませ 」をのち添えとしました。

 「 ませ 」は、 銀次郎 より一足早く亡くなりました。

 あまり背の高い人ではありませんが、黒髪が美しく、若い頃は結構美人だったのでは? という印象です。

 物静かな人で、立ち居振る舞いがやさしかったといわれています。

 早世 はしましたが、今思うとよくまあ 銀次郎 さんのような 職人気質 の人と添い遂げたな、とも 関係者 は語っていました。

 

   
 

 

 

 神田元久右衛門町 の 仕事場 玄関 、当然のことながら看板はない。

 

   彫師の仕事場にて・・・   (以下、証言)

『その昔、子供の頃、しばしば、仕事中にそっと忍び足で下階段を登り、覗き見にいったものです。

 階段上部から首を出し 刺青作業 を覗くと、 裸の大人 が うつ伏せ に横たわっていました。

 爺さん は前つばの 帽子 のようなものをかぶって、 両腕 に 黒い腕カバー のようなものをつけていたような記憶があります。

 針が突き刺さる とお客である 大男 が 悲鳴 を上げます。

「このくらいで音を上げるんじゃねえ。」といって大男の背中をぴしゃりと叩く場面もありました。

 息を凝らして見ていたら、やがて、 じいさん は 筆者 に気づき、「 バカヤロウ、こんなとこに来るんじゃーねー!!」

と怒鳴られて同時にペンが槍のように飛んできたものです。

 そのときはあまりの恐怖に縮みあがり、 飛来物 をよけるのに必死でした。

 当時は飛来物が刺青に使う針だと思っていたのですが、後で考えるとそれは 仕事師の命 とも言うべき 刺青針 を飛ばすはずがなく、その物体は何かほかのものみたいでした。

 そういえば、飛来物が当たった事は一度もありませんでした。 飛来物はある時には、ちびた 赤鉛筆 だったようです。

 それを 階段 の柱や壁に向かって投げていたようです。 当たらないようにね・・・

 何しろ普段はニコニコしていて、こちらが聞くことに何でもやさしく答えてくれる 祖父銀次郎 がこのときばかりは 鬼のような形相 で、怒鳴ったものですから・・・

 

 それにあるとき、来客のないときに、仕事場 で遊んでいたときのことです。

 傍らに置いてある 見本の画集帳 が目に留まりぱらぱらとめくってみていた時の事です。

 何冊か備えてあったように記憶しています。

「 この絵 は おじいちゃん が描いたの ?」 と聞いたことがあります。

 銀次郎 さんは ニコニコ として、「そうだよ、わしが書いたのさ。この 仕事 は 画家 と一緒なんだよ。」という旨の話をしました。

 ( 刺青師 が 画家 と一緒?) 「・・・・・・・・・」 この話を聞いた当初はその意味がわかりませんでした。

 ずいぶん後になって何十年もたってからこの言葉を思い出したとき、なるほどそうです。

 下絵 を描き、 背中に彫る ・・・そう、 二重の意味で 画家 だったんだな、ということがやっと理解できました。。

 下絵を自分で描き、その 見本帳 をよく見て、慎重に慎重に、人の背中という大きな キャンバス に 絵を刻み 込んでいくのですから・・・。

その中の一冊がその当時の 手触りの実感 から、別ページに載せた 「 画帖  2.」であると、今実感しています。』と・・・・・・

 

   銀次郎 、かの地へ・・・

 銀次郎 は亡くなるまで、 神田和泉町 の 三井病院 の 離れの病棟 に入院していました。

 見舞い に行った 孫 の小生に最後の言葉をかけ、それから数日を待たず、家族に見守られて、かの地へと一人旅たったのです。

 銀次郎 曰く 「XXよう、おめえは俺に似て女好きだから、女にはくれぐれも気を付けるんだぞ。」 と…

 まだ 小学生 の小生の手を取って言ったのです。 

 1958年の7月、夏の初め の頃でした。 享年83歳 でした

   戒名 は、「 瑞光院彫寿銀栄居士 」 です。 

 

 

 

 

 

 二代目 を 襲名 して以来、 彫り物 を旧来の人を脅かすためのものとか、こけおどしの存在ではなく、美術的 な 存在 にするために、さまざまな改良を行った。

 たとえば 石塔 に 亡霊 が出ている図柄や、 墓石 の 人魂 が 浮遊 していたり、 塔婆 が倒れかかる 墓場 の 気味の悪い 情景 などの人を 不気味 にして 恐れさせるような 俗悪な作品 は一切手がけることなく、 彫り物 というものを( ほりもん )極めて 芸術的 な存在 へと 昇華 していったのです。

 その一例としては、黒と朱の二色であったものを青や他の色を研究して、いっそう鮮やかにしたものである。

 この 彫り物 の カラー化 とも言うべき 一大改革 は、 二代目彫宇之 による 彫り物 の2000年の歴史の上での大改革ということができよう。

          以上が「 二代 目彫宇之 」の 伝承 であります。

 

 

        

 

 

              「 彫宇之 」銘のある作品

    保存されている写真。

  物の本によると「 彫宇之 」と 銘打った 作品 は 初代 のもののみであり、 二代目 のものは、「 二代目彫宇之 」という銘が明記してある、ということだったが、どうやら単に「 彫宇之 」銘で彫っていたようだ。

  二代目彫宇之 = 銀次郎 はまじめで几帳面な性格で、自分の作品をすべて 写真撮影 して保存しておいたようだ。

  今で言う営業見本的なこともあったろうが、マスコミ の出入りも頻繁にあった

  為、 カメラマン に頼むことも可能で、プロ級の腕で 撮影された写真 が相当な枚数保存されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

■東大医学部 皮膚科 教授 福士政一 博士 は、 神田朝日町 あたりにあった 仕事場 にしばしば訪ねてきていたと言います。

■戦後 は、 千代田区 神田元久衛門町 ( 浅草橋 )の 仕事場 に 作家 の 高木彬光 氏 が、 商船大学 の 学生時代 から、 入りびたり の状態であった。

 その後、作家になってからもしばしば訪れていたと言うことです。

 後年の 高木氏 の 小説 の中にも「 二代目 彫宇之 」の 実名 でたびたび登場しています。

 「 刺青物語 」 「 刺青殺人事件 」 などです。

 

■テレビのない時代に NHKラジオ 「 朝の訪問 」での インタビュー番組 や他の 番組 などにたびたび 出演 していました。
     (わたしもこの 放送 は聴いた覚えがあります。)

■ 浅草 高橋組 の親分や 小金井小次郎 ( 江戸時代の侠客 )の 何代目 かの 子孫 の 親分 ( 小金井一家 )、 清水の次郎長 の後裔の親分である

 静岡の 鈴木某氏、XX組の関上某氏というお親分、また 浅草のテキ屋 の 親分、 山春 などの人たちが」二代目の客であり、 常連 であり

 後援者 であったときいています。

■ 芸術院 会員 である ガラス工芸 の 岩田籐七 先生 は、二代目彫宇之 の ファン であり、自分自身も目立たないところに彫ってあった、といいます。

■去る 有名化粧品 メーカー ( 黒龍 )の 社長 が、  満州 で 稚拙な 刺青 をしてきた。それを直して、芸術的 に 全身仕上げ を行った。

 その会社の社長の奥さんも全身刺青を行ったという。

 某 化粧品メーカー の 創始者 は金を出して、 銀座のバー の 若い ホステス の体に 観音様 の 刺青 を施させた。

 

後年、「昔、見たが、あれはきれいだった。」と見た人が言っていたのを覚えてます。

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文身 ( ほりもん )とは・・・

 

彫青  ( ほりもん ) 彫物  ( ほりもの ) 刺青  ( しせい ) 入墨  ( いれずみ ) もんもん などいろいろに云われていますが、正式には 文身 と書き「 ほりもん 」 あるいは「 ほりもの 」といいます。

紀元前5世紀の 呉越 の抗争で 呉 が滅亡してその 遺民が日本 へ渡り、その人たちの 入墨の習慣 が日本に伝わったといいます。

これが日本における「 イレズミ 」の 起源 であるといわれています。

以来2500年 日本に伝わる 奇習 となっています。

漁師 が もぐり漁 をするにあたって、 フカよけ のために 全身 に 施したのが始まり で、それで 文身と云う風になったとも云われています。

海中で フカ を脅かし、自分を守るためのものであったといいます。

それが 後世 まで、他人を脅すもの として、使われたのでした。

そんな 文身 ( ほりもん )というものは2 500年後 に、 二代目彫宇之 が 芸術 的のものとして、改革 したという 功績 は 非常に大 といえるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

「 名人 彫宇之 夜話 」

 

       

 

    

 

                     刺青用針 の拡大図(実物) 

             当時使用していた 名刺  (実物 )

 

 

 

   連載              記事の表記は昭和の古い字体のため、一部現在の 令和の 現代語 に直してあります。      

   https://popminami2005.web.fc2.com/clip_image002.jpg

  名人彫宇之夜話

 撮影 藤本四八 文 小林桃人

  その起源を アイヌ族 や 南洋土族 に発する 刺青 ( しせい )がはるか 江戸中期 ( 文化八年 )に蛮風と目されて 法令で禁止 されて以来、一方では粋き勇みの「 美術 」として 巷間 に称揚されてきたのが吾が国の 刺青風俗 である。

  時代によって盛衰変遷はあったが 禁令 をくぐって連綿として今日に続いていることはそのまま何かの問題を吾々に提供するものである。

 終戦後 、いちはやく、この 風俗 が 吾が國 の代表的なものであるかのように 海外の グラフ雑誌 に紹介されたことは 省みて拘泥たらざるを得ない。 

 とまれ ことに本誌は 現存するこの道の名人が 刺青施工 中の実態を紹介して 改めて 批判の資としたい。

 

 

修行まで

 

https://popminami2005.web.fc2.com/horyuunomeijinyawa-02-1.jpg

 あっしは明治九年、 日本橋 の 横山町 の生まれ 親父は 手習い師匠 をしてゐた。

 年の方はそっちで勘定してもらいたいな。

 小供 ( ガキ )の時から場所柄、 銭湯 で いなせな職人 衆の見事な 入墨 を澤山みてゐたので、自分も何とかあの様に彫れるよい 彫物師 になり度いと思ってゐた。

 十五六歳の時に 彫兼 といふ 彫物師 の 弟子 にして呉れと頼んだが、彫るならやるが、教えるのは真っ平と断られたので仕方なく 自分の體 に 彫ってもらうことにした。

 そして彫られ乍らよく 道具 を見たり、 彫り方を 覚えて終った。

しかし 本当の修業 は、 兵 隊に征ってから( 日清戦争 ) 初代彫宇之 師匠 についてからだった。

 人様の體にやり直しのきかない墨を入れるのだからと、干大根 を體に見立てて 稽古 をしたもんだあな。

  小ジワ のよった 大根の皮 を破らないように 針 を入れていくのですよ。

  それこそ夢中になって、一日に大根を二樽分も使ったことがあった。

  針を刺す深さは 筋彫 で 半紙三枚 の厚み、 ボカシ彫 や朱を刺す時は、半紙二枚の深さで、これも毎日毎日半紙をブスブス刺して稽古したもんですよ。

 あっしがこの 初代彫宇之 を 襲名 したのは、師匠の十三回忌を終えた昭和十二年のことである  

     針 ・ 墨 ・ 朱 ・ 図柄帳 

 道具 はたったこれだけで、風呂敷包み にして何処へでも持っていけるという代物さ、

筋彫針 は四本、 ボカシ針 は二十六本、各々 竹を削った柄 に 絹糸 で確かり

結え付けてある。

 

 

連載第一話 以上        二話に続く

 

 

入れ墨 には 針 が 肝心 かなめのものだからこれに一番工夫をこらす譯さ。

束ね方や、研ぎ方 にコツがあるというもんですよ。

墨 は質の良い 奈良墨 を選ぶから、結局、誰でも 古梅園*1「 櫻 」を使うな。

https://popminami2005.web.fc2.com/kobaienn01.jpg https://popminami2005.web.fc2.com/sakurasumi00.jpg 

                    画像はインターネットより転載

朱は、これは粉をといて特別な薬品を混ぜて作るのだが、これは 家傳の秘法 でムニャ、ムニャということにさせてもらひませうや。

図柄帳 には、 伊達彫 、 威嚇彫 と、 浮世繪 や 武者繪 をもとにしたが描いてある。

これを見て 客人 が彫る図を選ぶのです。

これは平べったくて 浮世繪 と變わっていないが、いったん 體に彫った となると、 立體的 にイヤイヤときわ立ってできるように工夫されてゐるものだから奇妙なもんですよ。

 

      図柄帳

     2代目 本人 が描いた 下絵 ( 実物写真 )

 

 

連載第二話 以上       

 

 

  あっしの経験と工夫からできた図柄だけどもとはやはり 師匠ゆずり でさあ・・・・・。

  料金 と 仕上げ期間 入墨代 はいくらだって?

  それはいくらいただきます、といふものではない。

  彫って呉れ、じゃ彫りませう。

  で後から 謝礼金 としてもらふのですよ。

  といっても大体の標準はありますよ。

  今背中一面に彫って二萬円といふところかな・・・・

  昔は一切(一寸角)五圓、十円といってゐたのだが、この節はもう チンピラ の半端なものはやらないからわからないね。

  仕上げまでの回数は、客人の懐中 ( ふところ )具合や職業によってまちまちですよ。

  二切か三切位宛やって、背中だけで約二か月、腕共で普通一か年はかかるでしょうね。

  順序ははじめ 筋彫 で 全體の絵 をつけて、それから ボカシ彫 を入れて次に 朱を刺して 仕上がり という次第でさあ。

 

   連載第三話 以上       四話に続く 乞うご期待

 

 

 

 客さまざま

 とにかくこの 刺青 のことを、ガマンと云ふ 位だから相當痛いもんです。 筋彫 が四切、五つ切と 彫り進んで くると、 針穴 はふくれ上りやがて三十八、九度の熱が出る。

 あつしの手懸けた中、一番すごいんで、背中を三回で彫り上げた人があつたが、こんなのは後にも先 にもたつた一人だったが、四十度以上の熱にも、手拭をくわえて頑張ってるたよ。

 ただ不思議なのは、この 彫物の熱 は湯に入りさえ すれば、すぐなほるのですよ。

 だから、一日 分の仕上が終ると必ず 風呂 へ入つてもらふことにしてるる。

 辛抱強いことは、男よりも女 の人の方が強いね。

        

 脂肪の多いセイもあるの だけれど、女の人には最后まで不気なのが多いな……

 客種はやはり 勇み肌 の 職人衆 や、 ヤクザ の 親分格 の人が殆どですね。

 中には 堅気の商人 の 且那 が好きでやつたり、 医学博士 なんてのも彫ったことがある。

 また 外國 から来られた 高貴な方 の肌に、日本へ來た 土産 に、 と云ふので、 帝国ホテル へ行って彫らされた もんですよ。

 普通、負けん氣の強い人が多いだけにもつと彫り足してくれ、と云ふ譯で 足の先から手の先、それこそ、全身くまなく彫つてしまった、なんてのもあるからね。

 その逆なのには、もう筋彫だけて、あとは、 彫物師 の顔を見ただけで、ウンザリするように成って、もう止めて終ふ人がある。

  とにかく この道の話は幾らでも面白いことがあるよ……

 

                             完

 

 

 

 生粋の江戸ツ子 曾年七十三歳 斯道に入って 五十餘年 たるものであるが上はとつ國の高 貴な方から下は町の 三下 まで 手懸けた 數は判らない 彫職 とはいえ何處か名人の風格がある

 ボカシ彫 の最中この針が二十六本東左手薬指に挟んだ 太筆 に墨がふくませてあるこれを針につけては彫つてゆくプチツ プチツと香がする指許のフキンで滲み流れる血をぬぐうのだ

 

これは 威嚇彫 のーつ 安達が原 の 鬼姿 朱が悪く利いて見るからに陰惨な感じだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

          2代目 手彫り 作品 「 和藤内 」( 刺青大鑑 より転載)

          モデル は 3代彫宇之 市太郎 の背中

                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 銀次郎 に関する 伝承 は主に上記のとおりですが、この話を語ってくれた人も亡くなって久しいため、 彫宇 之 =  銀次郎 の話も今では限りある物語となってしまいました。

 銀次郎 は庶民だが、 陸軍近衛連隊 に所属していた。

 彼は 日露戦争 においてめざましい 武功 を上げ、 感状 を一通、最高の栄誉である 金鵄勲章 を二つ授与されている。

 それに 剛直 、果敢、 決断抜群の 軍司令官、 黒木大将 の元での戦績はめざましかった。

 それはその後の彼の生き方によく現れている。

 職人気質 の 銀次郎 はとにかく 器用な人 で、なんでも一人でできてしまう人だったようだ。

 それに彼は 好奇心 が盛んで、 浅草橋 の 二階の仕事場 の 待合室 には、当時日本では珍しい「 LIFE 」のような 外国 の大判の 写真誌 がたくさん揃えてあって、それらの珍しい 雑誌写真 の数々が揃えてあった。

 彫師の仕事場 、それはとても 不思議な空間 でした。

 お客の中には アメリカ占領軍 の 高級将校 や 兵士 GI も多くいたという。 彼ら 外国人 にとってもそこは エキゾチックな 不思議な空間 だったにちがいない。

 洋風の外国の書物 があると思うと、 ふすま には 錦絵 のようなものが一面に張ってあり、また 欄間 には、 江戸時代 の 神田祭 の お祭り の 鳳連 の 行列 でしょうか、

 先頭に火消しの装束を着たものが居るのが描かれた横長の額がかけてあったり、大きな姿見の向こうには二曲の大きな屏風があったり・・・

 ここは戦後の日本の喧騒たる日常の中ではまるで 別世界 のようでした。

 それでもそこにあるすべてが単なる置物ではなく、生きていたのでしょう。

 不思議と 博物館 の 展示物 などと違って、 抹香臭さ は感じなかったのです。

 今思えば、あれが 職人の仕事場 です。

 

 

 

 

 

 

以下次号・・・・・・

 

 

 

 

  二代目彫宇之 鈴木銀次郎
明治9年生まれ 東京府 南葛飾郡 平井村
 小間物屋 を営む( 飾り職人 として腕を振るう)
二代目彫宇之 として独立 東京府神田区多町 (伝)戦前、 彫宇之仕事場
戦後の営業地: 東京都千代田区神田元久右衛門町 戦後、 彫宇之仕事場 、終焉の地
菩提寺:正蔵院 戒名: 瑞光院彫壽銀栄居士 昭和33年7月13日命日 享年83歳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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